マクドナルドが新商品「マックフルーリー」のキャンペーンをやっているようだ。
5月1日から5月6日まで、マックフルーリーがスペシャル価格150円になるだけでなく、カウンター・ドライブスルーで「フルリレロ~!」ととなえると、フルーリーの100円クーポンがもらえるのだとか。
ただし、フルーリー販売店のみ。
公式お知らせページはここ。
「フルリレロ~!」
これは・・・。
マクドナルドが新商品「マックフルーリー」のキャンペーンをやっているようだ。
5月1日から5月6日まで、マックフルーリーがスペシャル価格150円になるだけでなく、カウンター・ドライブスルーで「フルリレロ~!」ととなえると、フルーリーの100円クーポンがもらえるのだとか。
ただし、フルーリー販売店のみ。
公式お知らせページはここ。
「フルリレロ~!」
これは・・・。
ついに20エントリー目!!!
4月はひそかに、20エントリー以上書くという目標を立てていた。
(これまでの最多が18)。
で、あと2日を残して、余裕で達成してしまった。
祝!
どうでもいいことだけど、自分で立てた目標をクリアするのは楽しい。
5月からも、毎月20エントリー以上を目指して、がんがん投稿していきたい。
第一、メモ帳なんだし。
今日のメモ。
以下はすべてたとえ。
最近、テレビのクイズ番組で漢字の知識を問う問題なんかがよくあったりす。
「へー、いつもはバカっぽいこの人がこんな難しい漢字を知っているのかー」と感心することも多い。
世の中には、ものすごい量の漢字を知っている人がいる。
むろん、漢字の学者もいる。
彼らは確かに漢字の知識がある。
これは世間的に認知された知識だ。
個人的には、漢字には、もうひとつのジャンルの知識があるように思う。
それは、文章を書くとき、何を漢字にして、何をひらがなで書くか、という判断だ。
相手は誰なのか?
どういう趣味の人なのか?
どの程度文章を読みなれた人なのか?
などで、何を漢字にし、何をひらがなにするかは、変わってくるだろう。
こういうジャンルの専門家がいてもおかしくはないが、まったくと言っていいほど目立たない。
というか、世間的には、これはジャンルとして認知されていないかもしれない。
漢字をおぼえることは勉強だ。
「教育再生」というときの「教育」とは、こういう勉強のことなのだろう。
だが。
分からない漢字は調べればいい。
知っている人に聞けばいい。
(聞かれる方はちょっとうざいかもしれないが、アドバイザーとして契約を結んでいれば問題ないだろう)。
しかし。
何を漢字にするかという判断は、ほとんどの場合、環境に応じて自分でくだすしかない。
何かを起こすときに大切なのは、こっちの知識だ。
繰り返しになるが、こっちの知識は、知識として、世間的にまったく認知されていなかったりするわけだ。
今日のメモ。
カテゴリーを考えることが大切だと思う。
「カテゴリーを考える」とは、どのカテゴリーに入るかを考えることではない。
新しいカテゴリーをつくりだすことだ。
既成のカテゴリーに属しているものでも、それはそのカテゴリーの中の小カテゴリーの集合体であったりする。
だから、新しい小カテゴリーを考えることができる。
あるカテゴリーの中にすっぽりと収まってしまうのは、苦痛以外の何ものでもない。
反対に、カテゴリーを考えるのは、単純に楽しい。
むろんこれは、人によるのだろうけど。
追記:
人を個ではなく、カテゴリーでしか理解しようとしない人がいる。
というか、カテゴリーでしか理解できない、というか。
自分が持っているカテゴリーのどれかに、とりあえずはめこまないと安心できない、というか。
判断を保留しておく面白さを知らない、というか。
たぶん、臆病なんだろう。
自分も臆病なので、他人のことは言えないが、正直、極端にカテゴリー依存症の人は、ちょっとうざい。
(よく考えたら、「臆病なんだろう」もカテゴリー化だった。
ただ「臆病なんだろう」と言われたら、言われた方は、おそらく「うざい」に違いない、と思ったり)。
高円寺の「タンタン」に行った(先日)。
ラーメン屋さん。
学生の頃、たまに行っていた店だ。
中の人は違ったが、店の様子は当時のまま。
(つまり、あまりきれいではなく、とにかく狭い)。
みそラーメンを食べた。
これがなんと、自分が記憶していたのよりも、おいしかった。
ラッキー。
「タンタン」で忘れてはいけないのは、「タンタンの冒険旅行」シリーズ。
フランスベルギーの昔の漫画だ。
「フランスベルギーの昔の漫画」というだけで、なんとなくおしゃれっぽく感じてしまう。
田舎者の証拠かもしれない。
以前、地下鉄に乗っていた有名私立の小学生が、行儀良く座席に腰かけ、「タンタン」を無心に読んでいたのを思い出す。
あまりに似合いすぎていた。
「そうか、東京のハイソな家庭の子どもは、こうやって育つのか」と、しみじみと思ったものだ。
漫画の方の「タンタン」には、日本語公式ページがあった。
卒業証明書をとりに大学まで行ってきた(先日)。
なぜか、というと。
実はかつて嫌な経験をしたことがある。
7・8年前に働いていた会社でのことだが、自分が卒業大学について嘘をついていると上司にこっそり報告したバカがいたようなのだ。
卒業した大学がどこかはどうでもいいのだが、こういうことで嘘をついていると言われるのは、心外だ。
こんなこと、調べればすぐに分かることだと思うのだが。
この典型的な小人物(誰かは分からないが)は、なぜ、卒業大学について嘘をついていると、勝手に思い込んだのだろう?
理由を考えてみた。
ひょっとしたら、「偶然駅で会った同級生が某理系出版社に転職していた」という話を、誰かにしたのを伝え聞いたのかもしれない。
文系なのに理系出版社に転職だなんて変だ、と思ったのか?
その出版社は当時、文系・理系関係なく求人していたのだが。
あるいは、誰かに「学生番号をおぼえている?」と聞かれたとき「おぼえてない」と答えたのを、伝え聞いたのかもしれない。
学生番号は基本的に自分しか知らない番号だ。
だから色々便利に使える。
不用意に他人に言いたくはない。
そもそも、そんなことを聞いてどうするんだろう?
ひょっとしたら、卒業年度の卒業アルバムに写真が載ってないということを、わざわざ調べたのだろうか?
1年留年しているので、前年度のアルバムには、一応載っているのだが。
(卒業年度のアルバムには写真は載ってなくて前年度のアルバムに載っているという話も誰かにしたことがあったのだが、こちらの方は伝え聞かなかったのだろうか?)
この手の小人物は、自分の情報が間違いだった場合にそなえて、こざかしい言い訳(たいていは他者の感情に取り入るような)を準備しているものだ。
小人物というのは一つの習慣であるから。
はたして彼はどんな言い訳を使ったのだろう?
非常に興味深い。
なぜなら、それはたぶん、彼が日常的に(ぼぼ癖のように)使用している手法の一つ、とみなせるからだ。
彼はそういうことをする人物だ、ということになる。
追記:
こういうことがあった場合、自分で対処するのは面倒くさい。
というか、バカくさい。
弁護士さんに任せたら、報酬分を引いてもちゃんと儲かるようにうまく取り計らってくれるのではないか、と思ったり。
そう考えたら、悪くない話ではある。
有名なこちらのブログでも、取り上げられている。
さっそく読んでみた。
個人的なメモとして、短めの文章をいくつか。
僕は伝統主義者でも復古主義者でもない。何に還れ、彼(か)にに還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかないからだ。そして現在に於て何に還れといわれてみた処で自分自身に還る他はないからだ。こんなに簡単で而(しか)も動かせない事実はないのである。
人間は、正確に見ようとすれば、生きる方が不確かになり、充分に生きようとすれば、見る方が曖昧になる。誰でも日常経験している矛盾であり、僕等は永久に経験して行くことだろう。
モオツァルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。
民主主義政治という大芝居には、政治家という役者と国民という見物人が要る。比喩的な言辞ではない。実際に、政治家は見物のこわいことを知っている名優でなければならず、見物は金を払って来た見巧者(みごうしゃ)でなければならない。政治的関心などというとぼけた言葉なぞ要りはしない。
成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処(そこ)には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生まれて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。
ディック・ブルーナは「ミッフィー」の作者だ。
1927年オランダ生まれ。
もう80歳。
今でも「ミッフィー」を描き続けている。
現役バリバリ。
すばらしい人生だ、と思う。
自分とは全然違うけれども、一つの目標ではある。
今日のテーマは「街で考える」(2)にしようと思ったのだが、ちょっと思うところがあって(というか、街で考えた結果として)、昨日のエントリー「最初から捏造でした?」の続き。
個人と組織の関係は、学生の頃からのテーマでもあるし。
組織の中のバカについて。
組織の中には2種類のバカがいる、と個人的には思う。
1つ目は、「最初から捏造でした?」で取り上げた「組織の威を借るバカ個人」。
2つ目は、「組織の威を借るバカ個人にコントロールされているバカ個人」。
組織の中の悪が露見することがあるとすれば、これらのバカ個人のうちのどちらかの動きによるだろう。
(あらかじめ断っておくが、これは「最初から捏造でした?」で取り上げた組織の話ではなく、あくまでも一般論である)。
「組織の威を借るバカ個人にコントロールされているバカ個人」は、時として、組織の動きに納得がいかないことがあるはずだ。
「コントロールされている」くらいだから、上が持っている情報の一部(あるいはすでに捏造された情報)しか与えられていないことが多い(それが、組織だし)。
そういう場合、どう行動したらいいだろう?
思うに、組織のルールを離れて、個人で動いてみればいいのではないか?
組織以外の第三者をまきこんで、真実を追究してみる。
第三者、つまり組織以外の信頼のおける一般の人に協力を依頼することで、自分の信じることを証明できるのではないだろうか?
いざと言うときは、その一般の人が、自分の行動の正当性を証言してくれるはずだ(なにしろ、その人は、信頼のおける人なのだし)。
個人の責任で動くことによって、結果として、何らかの形で、組織(あるいは社会)に貢献できるかもしれない。
上から行動を抑えられているよりは、ましだろう。
むろん、その勇気があれば、の話だが。
という、あくまでも典型的に非組織的な人間の妄想。
先日12人全員の無罪が確定した鹿児島の公選法違反事件だが、「最初から捏造だった」という疑いが出てきているらしい。
鹿児島県警:県議選で全員無罪 初期から報告書ねつ造か(毎日新聞)
被告とされた元県議の中山信一さん(61)=今月8日の県議選で当選=陣営からビールを受け取ったと疑われた会社役員の男性は任意聴取で趣旨を再三否認したが、報告書は「認めた」ように作られていた。この容疑では立件されなかったが、関係者は「うその事実で県警本部に逮捕のうかがいを立てており、最初から強引な捜査が横行していた」と話している。
「うその事実で県警本部に逮捕のうかがいを立てており」という部分がすごい、というか、なんと言うか。
同じ鹿児島の人間として、ちょっととほほ、である。
鹿児島の人間だから言うわけではないが、これまでの様々な事件を顧みるに、こういうことは実は鹿児島に限ったことではないだろう。
この組織、どうやら捏造癖があるようだ。
よく考えたらこの組織、周到に準備された内部告発でもないかぎり、自由に捏造できるしくみになっている。
追記:
「組織」と書いたが、実際は組織全体ではなく、「組織の威を借ることで自分は何でもできる」という万能感を持った組織内部のバカのことだ。
では、こういったことを内部の人間が簡単に告発できるかといえば、そうもいかないだろう。
TBSが「朝ズバ!」の「捏造」疑惑でだんまりを決め込んでいる事実(「ためしてガッテン」のNHKとみごとな対照をなしている)を見れば、容易に想像がつく。